東京時代
1965年、神奈川県川崎市に生まれる。今では誰も信じてくれないが、高校時代までサッカーをやっていて、東京都大会で決勝まで進出、強豪帝京高校に敗退した経験あり。チームメイトのレベルが高かったため、自他とも認める“11番目のレギュラー”だった。
一橋大学社会学部では、“あまり金にならない、仕事で役立たない”と揶揄されていた社会言語学を専攻。卒論は、カリブ海にあるフランスの海外県マルティニークのクレオール語と音楽について。現地調査(!)も交えながらクレオール語の文法やクレオール音楽の生い立ちについて取り扱った。
“現地調査”といっても、大学を1年間休学してバックパッカーとしてニューヨーク、カリブ海、ブラジルを徘徊していただけのことではあるが、当時、めったに日本人が訪れることのなかったカリブ海で、生で現地の音楽を聴きまくるという貴重な経験をさせてもらった。

バルバドスのビーチ

トリニダードトバゴのスティールドラム

マルティニークのライブハウス(KALIの演奏)
大学在学中からアルバイトをしてお世話になっていたのが、『月刊ラティーナ』という ワールドミュージック専門の月刊情報誌。この会社、雑誌の編集と中南米のアーティストの招聘を手がけており、一番最初の仕事は、ガル・コスタ
というブラジルの国民的大スターの日本ツアーのバンドボーイだった。ポルトガル語のポの字も知らず、辞書片手に1ヶ月もの間、10名ほどのバンドメンバーのお世話をさせていただいた。大学卒業後も、そのままこのラティーナに就職して雑誌の編集者として夜な夜な徹夜の日々を送った。このときの経験が何物にもかえがたい宝になっている。
その後、フリーランスライターとなってさらにカリブ海をウロウロした後に東京に戻り手がけたのが『カリブ海の音楽』
という本。


サルサ、メレンゲ、レゲエ、カリプソ、コンパ、ズーク等々、今ではだいぶ知られるようになった多種多様なカリブ海の音楽を、北はキューバから南はベネズエラ、コロンビアまで俯瞰してしまおうという、当時としては果敢な企画だった。吉田ルイ子さんの写真の数々と沢田としきさんのイラストのおかげで とてもステキな本に仕上がった。
沖縄時代
『カリブ海の音楽』出版に前後して、1995年、夫婦で沖縄に移住。これほどまで沖縄に仕事がないとはツユ知らず、3ヶ月ほど無職で過ごす。そんな時、ひょんなご縁から「第2回世界のウチナーンチュ大会」事務局(沖縄県庁国際交流課内)にご紹介いただく。
実は“ダメ元”で応募していた軍雇用員(PCオペレーター)の内定が決まりかけていた中でいただいた「ウチナーンチュ大会事務局」のお話し。こちらの方が給与条件は少なめだったが、迷いなく決心! 「中南米や沖縄と深く関わることができる、こんな自分にピッタリの仕事が舞い込んでくるなんてっ!」と張り切って働きまくった。「日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語で多言語併記された印刷物・制作物の内容校正ができるスタッフ」って後にも先にも他にいないだろいうという自負もあった。

第2回世界のウチナーンチュ大会(1995年)
大会終了後の1996年春、今度は東京の友人からの紹介で、国際交流基金(当時)の海外派遣事業に関わらせていただく。“沖縄の島唄の大御所と東京の有名ジャズピアニストのコラボレーションで、アフリカ4カ国を1ヶ月かけてツアーしてまわる”というものすごい企画のツアーマネージャー兼通訳を仰せつかった。
沖縄からは、金城実さん、山里ユキさん、大工哲弘グループという、まさに今や沖縄民謡界の中心人物の皆さん。東京からは、明田川荘之さんと佐山雅弘さんという天才ジャズピアニスト2名。これらの皆さんとライブをしながら、現地のアフリカ人ミュージシャンとジャムセッションをしてまわるという、何が起こるかわからない、アドベンチャラスなツアーだった。 1996年3月4日のサンシンの日には、南アフリカのケープタウンから国際電話中継で「かぎやで風」の一斉演奏に参加した(当時はもちろんインターネットなど一般的でなかった)。
ジンバブウェの女子高校でのカチャーシー
その後、1996〜97年は財団法人沖縄県国際交流財団(当時)で、98年〜99年は財団法人沖縄観光コンベンションビューロー(OCVB)でお世話になった。 OCVBでは、情報誌「マンスリーオキナワ」やホームページ「真南風ネット」を担当した。

当時の「真南風ネット」
「真南風ネット」は、観光形態が団体・周遊型から個人・小グループ型に変化する過渡期だった当時、個人やリピーター向けのディープな沖縄情報を提供するサイトの先駆けとなった。
2000年、有限会社南西マイクロ(現株式会社Nansei)に入社。OCVBの春季・夏季インターネット・キャンペーンや「真南風プラス」立ち上げ、デジタルアーカイブ「Wonder沖縄」などのWEBコンテンツ企画制作に携わる一方で、第3回(2001年)、第4回(2006年)の「世界のウチナーンチュ大会」の事務局にも、多言語制作や企画立案のコーディネイターとして参加させていただいた。

第4回世界のウチナーンチュ大会
県人会長・民間大使会議のコーディネイターを努める
さらにこの頃から、有限会社開(弊社 株式会社カルティベイトの前身)からの委託で、地域の皆さんを対象に、西表島にてホームページ作成講習会の講師をしたり、知念村で観光情報発信講座をしたりと、少しずつ地域振興のお手伝いをさせていただくようになる。
また、これまで培ってきた、コンテンツ編集や音楽ステージ制作、イベント企画・運営、県の外郭団体での勤務経験などを活かし、2006年以来沖縄県自治研修所で「わかりやすい資料づくり講座」 の講師を務めるなど、セミナー講師として本格的に活動を開始。現在では「成果の出る会議の進め方講座」「情報力向上セミナー」や「POSデータ分析入門講習会」などの講師も務めている。

約270名の応募があった「わかりやすい資料づくり講座」(2006年)
2006〜07年には、沖縄県離島活性化専門家派遣事業「なんでもお助け隊™」において16の離島でのべ50回以上の地域おこしワークショップを経験するなど、課題解決型のファシリテーターとして、県内の地域や企業・行政におけるプロジェクト遂行、会議効率アップ、生産性向上のお手伝いをしている。また、沖縄県内におけるファシリテーションの普及に向けて、ボランティアベースで「日本ファシリテーション協会沖縄サロン」の世話人をしている。
2007年6月より現職(株式会社カルティベイト取締役協働支援部長)。